広厳寺は天正16年(1588年)曹洞宗の開創であるが、起原を尋ぬれば天正16年以前、200年前の元中6年(1389年)頃、胎蔵界大日如来を本尊とする真言宗のお寺が建立されていたと伝えられている。

 現在のご本尊は京都の大仏師定朝法印の作でその当時のものと思われる。尚、このご本尊は宝暦11年辛巳2月大仏師定朝法印第30世源康伝によって修復されている。

 曹洞宗開創当時(天正16年)は戦国時代であり、戦乱の世の中でお寺も非常に荒廃し、住職もいなかったと思われる。

 その頃、門前耕雲寺16世海応寿山和尚の法嗣である生含寿朔和尚が戦跡で荒れた世の中を救わんと巡錫に志を立て、耕雲寺を法嗣の立山雲宗和尚に譲り、蒲原の中条に錫を止め荒廃した堂宇を見つけ、立派なご仏像のあるを見て、土地の住人に協力を求め、僧俗一体となって一寺を建立したのが広厳寺であった。

 生含寿朔和尚は、ご本師の海応寿山和尚をご開山にお迎えし、自らは広厳寺第2世となられた。

 開山から10代まで法灯を受け継いできたが、10世大機千乗和尚示寂後無住となる。

 その間、寛政3年8月放火により全焼している。幸いご本尊だけ運び出され難を免れている。

 その後、黒川村長谷寺の9代住職大亨淳慧和尚を当寺復興のため、11代目の住職として迎えている。

 淳慧和尚は復興に尽力し、寛政3年11月仮本堂を建立している。

 仮本堂のまま、現在に至ったが、毎年の豪雪により伽藍の傷み方も甚だしく、平成2年7月27日檀信徒の特段の御寄付御協力により現在の本堂を建立した。





山号[湖彦山(こげんざん)]

 山号を湖彦山と言う。400年前、現在の寺裏から柴橋方面に向って紫雲寺潟という湖水であった。ご開山海応寿山和尚がその湖水に、寺から望む櫛形山脈の山々が映る姿の美しさを見て、山彦のように呼べばこたえる様をはたと思い湖彦山と名付けられた。

寺号[広厳寺(こうごんじ)]

 寺号については、焼失する前、当時建立されていた寺が近郷近在に類を見ない大伽藍であり、その名の如く広く厳かな法悦の道場であったところから広厳寺と名付けられたとされている。




開 山 海応寿山大和尚        元和元年  示寂 
      (本寺耕雲寺十六世)
二 世 生含寿朔大和尚        不詳       
三 世 風巌文宗大和尚        慶安二年  示寂 
四 世 孤峰松鶴大和尚        寛文十一年 示寂 
五 世 風屋本松大和尚        元禄四年  示寂 
六 世 孤舟玄村大和尚        天和二年  示寂 
七 世 徳本良澤大和尚        享保五年  示寂 
八 世 亀外普鑑大和尚        寛保元年  示寂 
九 世 覚如恵観大和尚        安永二年  示寂 
十 世 大機千乗大和尚        寛政二年  示寂 
十一世 大亨淳慧大和尚        文政十一年 示寂 
十二世 大雄廓峰大和尚        安政六年  示寂 
十三世 勇国俊乗大和尚        慶応二年  示寂 
十四世 蘭山道香大和尚        明治元年  示寂
十五世 大志洞雲大和尚        明治二十六年示寂 
十六世 哲牛善光大和尚        大正九年  示寂 
十七世 中興大道徳仙大和尚 昭和三十五年十一月三日示寂
世寿七十七歳
十八世 重興慧運洞光大和尚 平成十九年六月十一日示寂
世寿八十六歳
十九世
佛学英俊和尚
現住 平成八年九月十九日任命




耕雲寺の開創は今より約六百有余年前に遡る。即ち応永元年(1394年)傑堂能勝和尚の創立になるもので、その師、梅山聞本和尚を開山とし、自らは第二世になられた。

 傑堂和尚は彼の建武の中興の智将楠木正成の四男正儀の嫡男で正能といい、史書によれば祖父の意志をついで南朝再興をはかり、勅命により一族と共に足利勢と戦いよく奮戦したが、空しく敗れ、流れ矢に当り左ひざを傷つけ戦う能わざるに至って再び武将たり得ず、福井の龍沢寺に遁れ仏門に帰依し梅山聞本和尚を師として修行を積み、やがてこの地に足跡を伸ばされ耕雲寺を創立されたのである。

 穏坐三十年門弟の育成と衆生の教化に努められた為、下越を中心とし遠く関東、東北、北信に迄直末寺八十寺、孫末寺三六七寺、孫々末寺三十七寺、その他系統に属するもの三百寺を数えるに至ったことは、如何に師の徳風が偉大であったかが窺われるのである。

 傑堂能勝にはたくさんのお弟子があったが、顕窓慶字、南英謙宗のお二人は特にすぐれ、顕窓和尚は慈光寺(村松町)及び雲洞庵(六日町)、南英謙宗和尚は種月寺(岩室村)をそれぞれ開山しこれらを併せて越後四箇之道場と称し何れも夥しい末寺を有し門風大いに栄えたのである。

「耕雲寺のしおり」転載

新潟県村上市門前 耕雲寺